
新幹線のホームに降り立ち、改札を抜ける。そこにあるのは、完璧に整えられた「既視感」だ。
駅ビルは機能的に解凍され、チェーン店が記号のように並び、情報のノイズは綺麗に漂白(ホワイト化)されている。リノリウムの床は、どこまでも滑らかに続いている。
だが、私はその清潔な表層をなぞるために、この街に来たのではない。
どれほど都市がマニュアル化され、効率が追求されようとも、路地裏には消し去ることのできない「情念」の集積が残っている。

ビニールテープで補強されたスナックの椅子、蛍光灯の青白い光に照らされた曇りガラス。それはSNSのタイムラインには決して現れない、街の毛細血管を流れる生々しい体温だ。
一方で、その「濁り」は決して無秩序ではない。
百貨店の包装紙が守り続ける「格」という名の信用インフラ。
カウンターの端で、黙っておにぎりを握るママが担う「生存支援」という名の非市場経済。
それらは、その土地の風土と歴史が必然的に編み上げた、生存のための精緻な構造(システム)なのだ。

効率化という名のメスは、いま、これら都市の生命維持装置を「無駄」として切り捨てようとしている。
この記録は、九州の地を歩き、その皮を一枚ずつ剥いでいった観測の記である。
感情を排した事実の集積から、消えゆく街のアイデンティティを逆説的に浮かび上がらせること。
地図の上から漂白された「濁り」の中にこそ、私たちが生き残るためのヒントが隠されている。
まずは、九州の東端。噴出する湯煙の街へと向かう。
そこには、洗練された福岡が決して見せることのない、剥き出しの「当事者意識」が息づいていた。
次回:大分・別府編(1) ―― 福岡が黙り、別府が叫ぶ


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