ホワイト化する世界で、僕自身が「正しさ」という檻に閉じこもっていた皮肉

未分類

思想の目詰まり


ここ数ヶ月、文章が書けなかった。
地方都市の路地裏を歩き、角打ちで酒を飲み、スナックで人の話を聞き、日々の記憶は増えていくのに、言葉だけが出てこなかった。

街では再開発が進み、どこも似たような建物が増えている。
街の個性、雑味が少しずつ消えていくことに違和感を覚えていたはずなのに、気づけば僕自身も“整った自分”を求めていた。

もともと僕は、人と会って話すことでインプットを整理するタイプだ。
会わない期間が続くと、情報だけが溜まり、処理が追いつかなくなる。
この数ヶ月はまさにその状態で、蓄積だけが増え、出口が塞がっていた。

「良く思われたい」「嫌われたくない」「身バレが怖い」「うまく書きたい」。
外の世界の均質化を寂しく思いながら、内側では同じように自分を均質化しようとしていた。
その矛盾が、言葉を止めていたのだと思う。


僕の中にある「濁り」を認める

ある思想では、人は外側の監視ではなく、内側に“監視員”を置いたときにもっとも自由を失う¹。

僕は外側で完璧に振る舞ってきたわけではない。
ただ、心のどこかで“賢く見られたい”“専門家らしくありたい”という圧が常にあった。
その内側の圧が、文章を書くときの自分を固くしていた。

けれど、実際の僕はもっと雑で、扱いにくい。

  • 鏡を見るたびに、少しずつ変わっていく身体に気づく焦り
  • 気持ちの余裕がなくなると簡単に揺らぐ精神
  • ふとした瞬間に浮かぶ、説明しづらい暗い思考
  • 些細なことで声が荒くなる未熟さ

酒場で誰かと話すとき、整った言葉よりも、こうした弱さや本音のほうが会話を動かしていた。
社会が「不潔」として排除しようとする部分にこそ、人間の実態がある。
そして、その“濁り”があるからこそ、人と向き合うときの手触りが生まれるのだと思う。


「いき」の構造への回帰

ある日本の哲学者は、執着を手放した先に「いき」が宿ると言った²。

僕は長いあいだ、「立派に見られたい」という気持ちをどこかで抱えていた。
ソムリエとしても、書き手としても、外から見れば完璧ではないのに、内側では“そうあらねば”という圧があった。

けれど、その内的な執着が言葉を止めていたのだと思う。
評価されるためではなく、自分を保つために書く方が、今の僕には合っている。

これからは、整った論理よりも、いまの自分が感じていることをそのまま書く。
この記事は、過剰に“ホワイト”になろうとしていた自分から離れるための、最初の記録だ。

完成された論はもう求めない。
ただ、ここで生きている証拠として、未完成のまま言葉を置いていく。
それが、世界のホワイト化に対する、僕なりの静かな抵抗になる。


📎 注(脚注)

  1. ミシェル・フーコー『監獄の誕生』より、パノプティコンに関する議論
  2. 九鬼周造『「いき」の構造』より、「諦め」と「いき」に関する議論

コメント

タイトルとURLをコピーしました