
黄猿の涙は「裏切り者の美談」か──田中邦衛に重なる、虚しき忠誠の行方
「今さらワンピース?」
30代の部下や友人たちが当たり前のように語り合う『ONE PIECE』のエピソードに、50代の私はどこか疎外感を覚えていました。彼らにとってこの作品は、もはや「現代の基礎教養」であり「共通言語」。
その輪に加わりたいという純粋な好奇心から、Netflixで第1話の再生ボタンを押したのが、ちょうど1年前のことです。
それから1,115話──エッグヘッド編にたどり着いた今、私はただの娯楽を超えた「ある一人の男」の生き様に、震えるような衝撃を受けています。
その男の名は、海軍大将・黄猿(ボルサリーノ)。
彼が体現したのは、組織に生きる大人の「究極の悲哀」でした。
1. 『仁義なき戦い』の残像──「小物の狡猾さ」に宿る生命力
『ONE PIECE』の黄猿(ボルサリーノ)を初めて見たとき、私の胸に去来したのは、どこか懐かしい感覚でした。あの風貌、あのしゃべり方──まるで昭和の銀幕を彩った名優・田中邦衛さんそのもの。
しかし、その懐かしさはやがて、ある種の違和感へと変わっていきます。なぜなら、私の中には「田中邦衛=裏切り者の象徴」という、東映実録路線で培われた強烈なイメージが根を張っていたからです。
田中邦衛さんが演じた槇原政吉──あの男を覚えているでしょうか。強い者にすり寄り、仲間を裏切ることに一切の躊躇がない。生き残るためなら、どんな卑劣な手も使う。だが、そこには一種の潔さがありました。
「俺は俺のためにしか動かない」。その開き直りが、逆にキャラクターとしての芯を際立たせていたのです。
だからこそ、私は黄猿にも同じ匂いを感じていた。「組織のため」と言いながら、結局は自分の保身を最優先する男──そんな冷徹なリアリストを期待していたのです。
2. 迷いを見せた黄猿──「裏切り者」になりきれなかった男の空虚
ところが、エッグヘッド編で彼が見せたのは、まったく別の顔でした。
親友・ベガパンクを殺した後、彼はサングラスの奥で苦悩の表情を浮かべる。まるで「こんなはずじゃなかった」とでも言いたげに。
だが、その涙に私は共感できませんでした。なぜなら彼は、自分の意志を放棄し、組織の命令に従っただけ。そのうえで、結果に傷ついたような顔をする──それは、裏切り者の潔さとは真逆の、どこまでも中途半端な姿に見えたのです。
3. 「大人の事情」という名の欺瞞
ジンベエのように、自らの信念を貫いて組織を離れる勇気もない。
山守組長のように、徹底して自分の利益を追求する覚悟もない。
黄猿は、ただ「組織のルール」という盾に隠れ、親友を手にかけた後で「自分も辛い」と言い訳をする。その姿は、悪党よりもずっと無責任で、ずっと身勝手に映りました。
価値観を変えることもせず、ただ流され、後から「悲劇の男」を演じる──その甘えに、私は強い嫌悪感を覚えたのです。
結び:黄猿の涙に、私たちは何を見るのか
昭和の裏切り者たちは、もっと泥にまみれ、もっと必死に「個」として生きていました。彼らの裏切りには、ある種の覚悟と、哀しき美学があった。
それに比べて、黄猿の涙はどうでしょうか。
それは「親友を殺した悲しみ」ではなく、「組織に従った自分への言い訳」と「決断できなかった自分への怒り」ではなかったか。
私たちは、あのサングラスの奥の涙をどう受け止めるべきなのでしょうか。
「大人の事情」として許すのか。それとも、信念を持てなかった男の欺瞞として、突き放すのか。
引用・参考:
ONE PIECE.com|キャラクター紹介:ボルサリーノ(黄猿)
ハッシュタグ:
#ワンピース考察 #黄猿 #田中邦衛 #仁義なき戦い #エッグヘッド編 #昭和映画 #ONEPIECE


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